3月7日の美術館コンサートは中止になりましたが、コンサートのために準備していた「デュフィと音楽」の関わりについて、ここに載せておきます。
デュフィは音楽に関する絵画が多く、絵をスクリーンに投影しながら演奏する予定でしたので、そのための解説をメモしたものです。
モーツァルトに捧ぐ
<デュフィと音楽> 2020年3月7日 松本市美術館コンサート
ラウル・デュフィ(1877〜1953)は、マチスと共にフォービズム(野獣派)の一員とされます。
デュフィの家族には音楽家が多く、父はアマチュアの教会の指揮者兼オルガニストであり、母はヴァイオリニストでした。兄弟のうち二人は音楽家となり、ピアノとフルートを演奏しました。
そのような環境で育ったため、デュフィの絵画には音楽を題材にしたものが多数存在します。また絵画、版画の他、テキスタイルのデザインやジャン・コクトーの舞台デザインも行なっています。
パリでの友人関係には、ピカソ、マチス、シャガール、ブラック等がいました。
◎デュフィが描いた音楽家たち。
▶︎バッハ(1685〜1750)
・バッハの音楽は絵画的というよりは数学的、幾何学的であり、メビウスの帯やクラインの壷のような音楽や、射影平面の音楽があるとされます。
(射影平面とは、2次元に無限遠点が追加され、通常は交わらない平行線が無限遠点で交点を持つ)
・ バッハの孫ヨハン・セバスティアン・バッハは画家になり、風景や人物、歴史、神話の世界などを描きました。作品は現存しています。
・ バロック時代の美術は、ギリシア神話や聖人、王侯貴族の肖像画等が中心でした。カラヴァッジョ、エル・グレコ、ベラスケス、ルーベンス、レンブラントなどがいます。
・ 1710〜60年はロココ時代。
▶︎モーツァルト(1756〜1791)
・ モーツァルトの言葉。「私は見事な絵画や美しい彫刻を見るように、一目でその曲を見渡すことができます。」
▶︎フォーレ(1845〜1924)
フォーレは直接デュフィとの関係があるかわかりませんが、孫のフォーレ・ハラダは日仏混血の画家でした。国籍は日本。母は日本人ピアニストです。日本とアメリカで暮らし、外国人に墨絵を教えました。
また、フォーレは後にドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと交際していたそうです。
▶︎ドビュッシー(1862〜1918)
・ ドビュッシーが生きた19世紀半ばから20世紀の初めは、音楽と美術や文学、舞台芸術などが互いに密接に関わり合った時代でした。美術や音楽にインスピレーションを受けた音楽が生まれ、また音楽に着想を得た多くの美術や文学作品が制作されました。
・ とくにドビュッシーと美術の関わりは深く、「音楽と同じくらい絵が好き」と語っていたほど。アンリ・ルロールやモーリス・ドニなどの交流のあった画家たちや、イギリスのラファエル前派の影響を受けて作曲しました。
ドビュッシーの音楽に影響を受けた画家も少なくありませんでした。
・ ドビュッシーの作品には「版画」や「管弦楽のための映像」など、視覚芸術的な標題を持つものがあり、またオーケストラ曲「海」の楽譜の表紙には、葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」が使われています。
・ ドビュッシーの「喜びの島」は、ルーブル美術館にあるヴァトーが1717年に描いた「シテール島への巡礼」に触発されて作曲されたものです。(シテール島とは、エーゲ海にあるヴィーナスの島)
・ ドビュッシーは、ドガ、ルノワール、モネ、ヴュイヤール、カミーユ・クローデル、モーリス・ドニ、ボナールらに大きな関心を持っていました。
・ ドビュッシーの眼は常に新しい芸術に向けられていて、それまでの音楽アカデミズムの枠を越えて、音楽に一大革新をもたらしました。そのための大きな刺激となったのは、同時代の絵画でした。
◎アポリネール(1980〜1918)
・ 初めは美術批評家として出発し、あらゆる前衛芸術に関わりを持ちました。ピカソやブラック、キリコなどを次々に世に紹介しました。
・ パリの芸術コミュニティで最も影響力のある芸術家であり、詩・小説・演劇を横断して、近代詩から現代詩の方向を決定付けました。
・ キュビズムやシュルレアリズムという用語を作り、運動を擁護しました。
・ マリー・ローランサンと交際していた時期があり、二人の絵をアンリ・ルソーが描いています。マリーは彼にとって愛と芸術の女神でした。
・ アポリネールの結婚式にはピカソも出席しました。
「動物詩集」を書くきっかけは、ピカソの木版画でした。
・ ローマ生まれ。父はイタリア貴族で、母はポーランドの貴族出身です。
・ この時代に、アポリネールが果たした役割は絶大でした!!